「ありがとうございました」

 

知音は、4年生で鳥屋野小学校に転校し、「新潟では、同じ学校の友達と一緒にサッカーがしたい」と本人が希望し、ファイターズに入部しました。

 

三年間の活動の中では楽しいことばかりではありませんでしたが、転校生だったことを忘れるくらい、心を許せる友達も沢山出来、サッカーを通して心も体も大きく成長出来た三年間でした。

 

入部当初は、どちらかというと子供っぽく、のんびりとした性格の知音でしたが、ある日「試合には出せない」と監督に言われ、泣きながら帰ってきたことがありました。技術的にも、向き合い方も足りなかったのだと思います。初めて見る知音の悔し涙で、どういう言葉をかければよいか迷いましたが、「頑張ってダメだったなら分かるけど、まだ何も努力してないのに悔しいと思うのは違うよ」と話しました。5年生になる少し前の冬の寒い日でしたが、次の日から毎朝公園で朝練をするようになりました。今思えば、あれが、知音が変わるきっかけだったと思います。まだまだ努力も足りなくて、どこか甘いところがありますが、「強くなりたい」「負けたくない」という気持ちが芽生え、顔つきも少し違ってきたように思います。56年では怪我も多く、本人にとって思うようにいかない事も沢山あったと思いますが、監督・コーチ陣には、根気よく見守り、指導していただいたと思います。

 

くじけそうになっている時も親以上に親身になり、ケアしてくれたパパコーチ、一緒に見守ってきた保護者のみなさまには心から感謝しています。

 

そして、一緒に活動してきたファイターズの6年生には「よく頑張ったね」と言ってあげたいです。私自身は、間近で子供たちの頑張っている姿を見ることができてすごく楽しかったです。

 

 

 

三年間どうもありがとうございました。

 

 

 

知音母 諸橋 環

 

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コメント: 1
  • #1

    監督 児玉 (金曜日, 15 1月 2016 01:04)

    諸橋さん、お疲れ様でした。いつも時間がゆっくりと流れている環さんには、何か癒され感が漂っていて落ち着きました。理央という怪物が残るので何かと大変かと思いますが、引続き夫婦共々ファイターズのバックアップをよろしくお願いします。
    知音を初めて見たのは、体験入部の時でした。上越の春日FCに属していたこともあり、足元が上手な子だなという印象を持ちました。スピードもあり、持久力もありましたが、ボールをしっかり蹴れないとうい致命的なこともあり、入部当初は試合出場の機会はあまりありませんでした。いつもそれが悔しく、家でよく泣いていたそうですね。本人の努力もあり少しずつですが試合の出場時間も長くなり、6年生の時には左右のサイドハーフをこなせるスーパーサブ的な存在になりました。特に夏場に怪我する前はキレキレ状態で、スタメンに入れようと思った程状態がよかっただけに怪我が悔やまれます。印象に残ったプレーですが、アルビレックスとの練習試合での得点です。相手のシュートを受け、GKから右サイドへカウンターを開始。右サイドからの折り返しを知音が押し込んだシーンは今も忘れません。左サイドの自陣ゴール前にいた知音は、相手ゴール前へ猛ダッシュ。相当長い距離を走っての得点でした。その試合での知音は、いつもと違い気迫溢れるプレーをしていました。あの時のプレーが毎回出来れば、スタメンになれていたと思います。好不調の波が大きく、調子が悪い時に「知音どーした」と尋ねると「今日は気分がのらない」とビックリ発言。そんな奴にスタメンは任せられないと思いました(笑い)
    中学校でもサッカーを続けると思いますが、スピードとテクニックはすばらしいものを持っていますので、後はメンタル的に強くなること(理央のように?)と攻守の切替を速くすることです。更に付け加えれば、身支度も速くするようにね。(笑い)
    いつも気分ノリノリでサッカーが出来る様、練習からしっかりと準備してください。
    自とスタメンが見えると思います。頑張れ知音!